株式会社 聚楽のプレスリリース
当社では、1924年(大正13年)の創業期から現代まで息づく創業者の経営方針と発展の記録を「聚楽100年史」にまとめ、2024年3月10日刊に刊行します。
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大正チェーンレストラン化
聚楽の創業は1924(大正13)年にさかのぼります。前年の関東大震災の傷跡がまだ癒えぬ帝都東京の一角、
神田に「簡易洋食・食堂」の看板を掲げた小さな食堂を開業しました。店主は新潟出身の加藤清二郎25 歳。
「ウマイ・ハヤイ・ヤスイ」のキャッチフレーズのもと、当時まだ高価で贅沢なものとされていた洋食を安価に提供し、気軽に入りやすいお店として注目を集めました。
創業者は、統一メニュー・統一料金・セントラルキッチンの導入・食材の一括仕入れなど、現在の外食産業の原型となるシステムを、すでにこの時代に作り上げていました。これがいわば日本の近代外食産業の幕開けであったといえるでしょう。須田町食堂開店から8カ月後、京橋の交差点わき2号店がオープン。
翌1925年(大正14年)には4店。昭和に入ってからもハイペースで支店網(チェーン)を広げ、1934(昭和9)年までの10年間に専用食堂を含め、直営33店舗にまで拡大。1943(昭和18)年には東京を中心に最大89 店舗まで拡大しました。
故郷の新潟県で撮影された若き日の加藤清二郎(右)
1924年3月10日須田町食堂開店の日
(左から)京橋営業所、日本橋営業所、横浜第一営業所
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「右手に包丁、左手に算盤」今も息づく創業者の経営方針
加藤清二郎は、会社は技術だけでは成り立たず、計数管理により会社の状況を正しく把握しなければ
成長はないという意味を込めて、「右手に包丁、左手に算盤」という言葉を残しました。株式会社聚楽の専務取締役を務めた小池上正は、加藤清二郎についてこう語っています。
「社長は、私の店は将来うんと大きくするのだから、いくら大きくなっても困らない帳簿組織を構築してほしいと言われ、自らいろいろな統計表をつくられた。2カ月ごとに営業成績統計表ができ上がると、各支配人を呼ばれ克明に営業のやり方について検討を加え成績に応じて金一封を支給された」。
この言葉には、現場感覚を忘れないという意味も込められているのでしょう。須田町食堂時代の加藤清二郎について、当時の女性店員は「そのころの社長は、もっぱら“旦那さん”と呼ばれていましたが、忙しくなると鉢巻をしめて店のなかをキビキビと動き回り、一人何役もこなすという活躍ぶりでした」と述べています。
1960年代の加藤清二郎。後ろに直筆の「実業は奉仕也」の皿が見える
「実業は奉仕也」は、創業者の加藤清二郎が語る、企業の本分は社会への貢献です。そして社会に必要とされる企業になることが自身の発展にも繋がります。
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100年史より一部抜粋:沿革
当社ではこれらの創業の精神を大切にし、これからも事業を通じて社会の発展に寄与してゆく所存です。
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聚楽100年史の概要
名称:聚楽100年史
ページ数:47頁
目次:
・発刊のご挨拶
・写真で知る聚楽の100年
・聚楽精神・創業者の想い
<沿革>———————————————————–
1 創業前史〜波乱万丈青年期と覚悟の時〜
2 創業期(1924〜1934)…須田町食堂の始まり、チェーン店化へ
3 成長期(1935〜1940)…戦前の浅草地区“大作戦”
4 混乱期(1941〜1951)…89店舗→戦後残存5店舗からの再建
5 復興期(1952〜1960)…レジャー業界参入、上野・聚楽台開業
6 発展期(1961〜1970)…リゾートホテル事業へ本格参入
7 確立期(1971〜1980)…50周年記念:新宿・じゅらくエイト開業、スペイン料理専門店・開店
8 多角化期(1981〜1990)…加藤健一郎社長就任、個性派レストランやシティホテル開業
9 転換期(1991〜2000)…加藤治社長就任、ホテルはロゴを刷新、スペインバル・本格中華開業
10 再生期(2001〜2010)…須田町食堂の復活~原点回帰~、惜しまれながら上野・聚楽台閉店
11 未来を見据えて(2011〜)…東日本大震災・コロナ禍を乗り越えて
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・聚楽こぼれ話
・100周年記念イベント
・現在の店舗・施設一覧 (2024年1月31日現在)
・編集後記
■会社概要
株式会社 聚楽
【設立】 1924(大正13)年3月10日
【資本金】 1億円
【代表】 取締役社長 加藤 治
【住所】 東京都千代田区神田駿河台3丁目4番地 龍名館本店ビル9階南
【従業員】 正社員 570名/パートタイマー450名(2023年4月時点)
【事業内容】都市ホテル・リゾートホテル・各種レストラン
【URL】 https://juraku.com/