~30℃の条件下でもNAG処理※1により生重量が1.5倍増加。地球温暖化に伴う気候変動に対応~
キリンホールディングス株式会社のプレスリリース
キリンホールディングス株式会社(社長 COO 南方健志、以下キリン)のキリン中央研究所(所長 矢島宏昭)は、アミノ酸の一種であるN-アセチルグルタミン酸(以下、NAG)が、ビールの原材料であるホップの熱ストレス耐性を高めること、およびそのメカニズムを明らかにしました。NAGはホップだけでなく他の植物でも熱ストレス耐性を強化できることから※2、気候変動に対応する農業資材として活用できる可能性があります。本研究成果は科学雑誌「Horticulturae」にて、5月8日(水)に掲載されました※3。
地球温暖化は植物に対して熱ストレスとして作用し、成長を阻害する※4ことが知られていますが、ホップにおいて熱ストレスを抑制する技術やストレス応答のメカニズムは、これまでほぼ明らかになっていませんでした。今回、キリン中央研究所では、ホップに熱ストレスが作用する温度条件30℃の実験室において、NAG処理によりホップの生重量が1.5倍増加することを確認し※5、そのメカニズムも明らかにしました。本成果を活用し、地球温暖化に伴う気候変動によるホップの品質や収量低下を抑制することで、ビールに必要不可欠な原材料であるホップの持続的な調達を目指します。
※1 NAGの入った培地でホップを育てること。
※2 Hirakawa et al, Plant Biotech. 2024; 41(1): 71-76 (https://doi.org/10.5511/plantbiotechnology.23.1211a)
Hirakawa et al, Front Plant Sci. 2023; 14: 1165646 (https://doi.org/10.3389/fpls.2023.1165646)
※3 Hirakawa and Ohara, Horticulturae. 2024;10(5): 484 (https://doi.org/10.3390/horticulturae10050484)
※4 植物において通常の生育温度よりも高い温度は熱ストレスとして作用する。熱ストレスに晒された植物では生育遅延の他に葉の白化といった症状が観察される。
※5 熱ストレスが作用する温度条件30 ℃の実験室でのNAG処理をしたホップ・NAG処理をしていないホップの比較。
<研究結果>
1)アミノ酸の一種であるN-アセチルグルタミン酸(NAG)がホップに対する熱ストレスを緩和することを明らかにしました。実験室内の試験において、熱ストレス条件下における植物体の生重量がNAG処理によって約1.5倍増加しました。
2)NAGによる熱ストレス応答遺伝子※6の活性化の仕組みを解析し、ホップのストレス応答における分子メカニズムを明らかにしました。
3)NAGによるストレス応答遺伝子の活性化には、生物種を超えて遺伝子の機能制御に重要な役割をもつエピジェネティック修飾※7が関与していることを明らかにしました。
<今後の展開>
実験室で得られた知見を活用して、屋外環境における検証を行い、地球温暖化に伴うホップ品質や収量の低下を抑制し、持続的な高ホップの調達を目指します。
※6 熱ストレスによる細胞へのダメージを低減するための遺伝子。
※7 遺伝子の情報を司るDNAの塩基配列の変化を伴わずに、遺伝子の機能を調節する化学修飾。
今後もキリングループは、複合的に発生し相互に関連する環境課題(生物資源・水資源・容器包装・気候変動)に統合的に取り組み、豊かな地球の恵みを将来にわたって享受し、引き継ぎたいという思いをバリューチェーンに関わるすべての人々とともにつなぐべく、自然と人に「ポジティブインパクト」を与えるさまざまな取り組みを積極的に進めていきます。
■研究成果について
<背景・目的>
ホップはアサ科に属する雌雄異株のつる性の植物です。毬花(まりばな)と呼ばれる雌株の花にはビールに苦みや香り、抗菌作用をもたらす多様な二次代謝産物が含まれており、ビール醸造に欠かせない原材料として使用されています。また、ホップは冷涼な気候を好む植物で、特に高品質なホップはヨーロッパの涼しい、限られた地域で栽培されています。しかし近年の地球温暖化を伴う気候変動の影響により、ホップの品質や収量の低下が予測されているため、気候変動が進む中でもホップを安定的に栽培・調達し続けるための技術開発が求められています。
地球温暖化は植物に対して熱ストレスとして作用し、成長を阻害することが知られています。これらのストレスを抑制する技術やストレス応答のメカニズムはホップではほとんど明らかになっていませんでした。そこで本研究では「ホップにおける熱ストレス抑制技術の開発」と、「そのメカニズムの解明」を目的に研究を行いました。
<研究内容>
1)N-アセチルグルタミン酸による熱ストレス条件下での生育促進
これまでにキリン中央研究所では植物大量増殖技術※8のメカニズム解析を通じ、モデル植物のシロイヌナズナやイネに熱ストレス耐性を付与する化合物としてアミノ酸の一種であるN-アセチルグルタミン酸(NAG)を発見していました※9。今回の研究では、NAGを含む培地で育てることで、熱ストレス条件下におけるホップの成長が促進されることを見出しました。
結果:ホップを熱ストレスが作用する温度条件(30 ℃)で生育した場合、NAG処理したホップでは生育が促進され、植物体の生重量が有意に増加しました。
※8 キリンが1980年代から開発を続けている「植物を大量に増やす技術」であり、いもの増殖・茎の増殖・芽の増殖・胚の増殖の4つの独自技術からなる。近年ではホップの大量増殖法も開発した。
※9 Hirakawa et al, Plant Biotech. 2024; 41(1): 71-76 (https://doi.org/10.5511/plantbiotechnology.23.1211a)
Hirakawa et al, Front Plant Sci. 2023; 14: 1165646 (https://doi.org/10.3389/fpls.2023.1165646)
2)N-アセチルグルタミン酸による熱ストレス応答遺伝子の活性化
高温に晒された植物では、熱ストレスによる細胞へのダメージを低減するために様々なストレス応答遺伝子が活性化します。そこで、NAGがこのようなストレス応答遺伝子の活性化を通じてホップに熱ストレスの耐性を付与しているのではと推測し、熱ストレス応答遺伝子の一つと考えられるHlHSFA2遺伝子※10に注目した解析を行いました。
結果:HlHSFA2遺伝子の発現量を解析した結果、NAGを処理していないホップと比べてNAG処理されたホップではHlHSFA2の発現量が約2倍増加していました(左図)。さらに、熱ストレスによりホップでは活性酸素が蓄積しますが、NAG処理によって活性酸素の蓄積も抑制されていました(右図)。
以上の結果より、NAGは熱ストレス応答遺伝子の活性化を通じて、ストレスによる細胞へのダメージを抑制しホップに熱ストレス耐性を付与していることが示唆されました。
※10 ホップにおいて、シロイヌナズナの熱ストレス応答に働くHSFA2遺伝子と類似した塩基配列を持つ遺伝子。
3)N-アセチルグルタミン酸による熱ストレス応答遺伝子の活性化メカニズム
本研究では、アミノ酸であるNAGがHlHSFA2を活性化するメカニズムの解析にも取り組みました。植物は動物と異なり熱ストレスから自ら動いて逃れることができないため、その場でストレスから身を守るために、速やかにストレス応答遺伝子が活性化します。
この植物のストレス応答遺伝子の活性化には、エピジェネティック修飾※11という、細胞においてDNA※12を巻き付けているヒストン※13タンパク質に対する化学修飾が重要な役割を果たします。エピジェネティック修飾には多様な化学修飾のパターンが存在しますが、本研究では遺伝子の活性化と密接な関係をもつヒストンのアセチル化に注目しました。
結果:NAG処理されたホップではHlHSFA2のヒストンH4※14のアセチル化レベルが約2倍有意に増加していました。このことからホップにおけるNAGによる熱ストレスの耐性の付与には、エピジェネティック修飾を介した熱ストレス応答遺伝子の活性化が関与していることが示唆されました。
※11 DNAの塩基配列の変化を伴わずに遺伝子の機能を調節する化学修飾。主にDNAのメチル化やヒストンの化学修飾があげられる。
※12 生物の遺伝情報をコードする物質。細胞内で2重らせん構造を形成しており、真核生物では細胞核内に存在する。
※13 真核生物の細胞核内においてDNAとクロマチンという複合体を形成する塩基性タンパク質。
※14 ヒストンを構成するタンパク質の一つである、ヒストンH4タンパク質がアセチル化されたことを指す。活性化した遺伝子に主に蓄積している。
<研究成果>
本研究により、NAGをホップに処理することで熱ストレス耐性を付与できることがわかりました。そのため、地球温暖化に伴いホップ産地の気温が上昇しても、NAGを利用することで品質の高いホップを安定的に栽培できる可能性があります。NAGはホップに限らず複数の植物種に熱ストレス耐性を付与することから、新しい農業資材として活用できることも考えられます。
また今回の研究では、熱ストレスに限らず、ホップにおけるストレス応答遺伝子の活性化のメカニズムを世界に先駆けて明らかにしました。今後、ストレス応答遺伝子の活性化のメカニズムを詳細に解析し、ホップのストレス応答に対する理解が深まることで、ストレス耐性を強化できる新しい技術開発が期待されます。