丸長のれん会創立60周年事業実行委員会のプレスリリース
皆様に感謝の意を込めまして、加盟店の他、取引先企業、関係者の方々、丸長友の会の方々にもお集まりいただき、記念祝賀会を開催致します。
“ラーメンの神様”山岸 一雄
丸長のれん会創立60周年記念祝賀会
日時:平成31年3月20日 18:00~20:00
会場:中野サンプラザ クレセントルーム
また、60周年記念事業として、ガイドブックやホームページの作成のほか、長野・善光寺の老舗七味店「八幡屋礒五郎」とのコラボレーションによるつけ麺専用七味の商品化や、オリジナルのメンマや野沢菜の開発事業を展開していきます。
なお、実行委員会は下記の団体で構成されています。
丸長のれん会 会長 坂口 光男(中野大勝軒)
大勝軒 味と心を守る会 共同代表 田内川 真介(お茶の水、大勝軒)
丸長のれん会 友の会 事務局長 浦澤 亮浩
【丸長のれん会とは】
1947年(昭和22年)、荻窪に5名の共同経営で中華そば「丸長」を創業。
その後、それぞれが「丸信」「栄楽」「大勝軒」「栄龍軒」として独立。
各店が「のれん分け」として出店を増やしていきます。
創業メンバー 丸長 青木 勝治
丸信 山上 信成
栄楽 青木 保一
大勝軒 坂口 正安
栄龍軒 青木 甲七郎
各店からの支店やのれん分けの店が急速に増えたことで、従業員や原材料の不足といった問題や、また丸長本来の味を維持していくためにも情報交換や勉強会といった「場」が必要とされるようになりました。
1959年(昭和34年)、「会員の相互扶助の精神に基づき、協同事業を行い、親睦及び経済的地位の向上を図ること」を目的として、丸長のれん会が創設されます。
営業改善、技術向上、原材料の共同購入、従業員のあっせん、福利厚生などの事業に取り組む「互助組織」となりました。
【丸長系ラーメンの特徴】
創業当時(昭和20年代)のラーメン(中華そば)といえば、鶏ガラをベースとした中華系スープが主流でした。
丸長の創業者たちは元々長野県出身で、戦前は東京・日本橋で蕎麦職人として働いていたこともあり、豚骨のスープに日本蕎麦の技法であるカツオ節やサバ節で旨みを加えることを考案し、この味が支持されて戦後のラーメンブームが起こったといわれています。
現在では当たり前となっている「動物系」と「魚介系」でラーメンスープの出汁をとる技法は「丸長」がその礎を作り、現在のラーメンの原点となっているといえます。
【つけ麺の発祥・中野大勝軒】
創業メンバーの一人、坂口 正安は、「丸長」「栄楽」で修行の後、のちに“ラーメンの神様”と呼ばれる山岸 一雄とともに東京・中野に「大勝軒」を立ち上げます。
じつは「つけ麺」は「丸長」の創業者 青木 勝治が「ざるそば気分で」考案し、まかないとして食されていました。
1955年(昭和30年)に中野大勝軒の店長となった山岸 一雄が「特製もりそば」として初めて商品化。またそれぞれの店が工夫を凝らした独自のレシピを開発し「つけそば」として提供されるようになると瞬く間に人気商品となり、各店の看板メニューとなっていきました。
その後の1961年(昭和36年)、独立した山岸 一雄が池袋に大勝軒をオープンすると行列の絶えない人気店となり、つけ麺ブームを牽引することとなりました。
【つけ麺専用七味の発売】
長野・善光寺の老舗「八幡屋礒五郎」との共同開発により、世界初「つけ麺専用七味」が商品化されます。
長年のノウハウを生かして、2種類の唐辛子に、生姜、胡椒、白胡麻、ゆずなどをブレンドしたオリジナル七味です。つけ麺にはもちろんですが、ラーメン、蕎麦、うどん、焼き鳥などの料理にも相性バツグンです。
2019年3月下旬より丸長のれん会の加盟店限定で販売いたします。
【丸長のれん会加盟店】
「丸長」
荻窪丸長
目白丸長
下北沢丸長
阿佐ヶ谷丸長
豪徳寺丸長
やくし丸長
伊勢崎丸長
坂戸丸長
上福岡丸長
宮原丸長
信州中野丸長
つくば丸長
「丸信」
荻窪丸信
国立丸信
「栄龍軒」
草加栄龍軒
GOMA
「大勝軒」
代々木上原大勝軒
中野大勝軒
狛江大勝軒
祖師谷大勝軒
高島平大勝軒
茅場町大勝軒
栗木台大勝軒
山形大勝軒
大塚大勝軒
静岡大勝軒
大勝軒いぶき
大勝軒 弁天店
大勝軒 丸高屋
大勝軒 昭島店
お茶の水、大勝軒
お茶の水、大勝軒BRANCHING
大勝軒next 勝浦店
大勝軒next 上野店
くり山
「丸和」
丸和 春田本店
丸和 尾頭橋店
丸和 名駅西店
丸和 弥富店
丸和 各務原分店
【丸長のれん会会長挨拶】
会員の皆様に於かれましては益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
昭和34年丸長のれん会創立から60年の記念すべき年を迎えました。
これも偏に会員ご家族従業員の皆様、商社取引先関係の皆様と丸長友の会、また多くのラーメン愛好家の皆様の御支援御協力の賜物であります。
皆様のこれまでの多大なるお力添えに心より御礼申し上げます。
さて昭和22年に青木家の兄弟から始まった当会の歴史は日本のラーメン界に大きな足跡を残しました。
一つは戦後食糧供給の全く乏しい時代に、いち早く日本蕎麦伝統のカツオ、サバの魚介系ダシをラーメンに加えたことです。
戦前から蕎麦職人で仕事してきた必然から誕生したもので、それまでの鶏豚等の動物系ダシのラーメンに魚介の香りと旨味が加わり美味しさが倍増。日本人に合う味の新たな発案をしたことで多くの客に支持され東京ラーメンの礎を作りました。
二つは、いまやラーメンと共に日本はおろか世界に広まったつけ麺。その誕生から昭和、平成とつけそばのネーミングでお客様に提供。スープに甘さと酸味、辛さを加え、独自の自家製麺を提供することで麺の太さ、スープとの相性バランスを模索。丸長各店独自の改良工夫で個性化され、永年受け継がれてまいりました。
時代が変遷して地縁、血縁の関係性が薄れるのも世の常。しかし人と人の出会いによってまた新たな縁の繋がりを広く構築できれば丸長の意思は続いていけるものと思っております。
会員の皆様には血を分かち合った創立時からの歴史と伝統を誇りに、その精神を今に伝え研鑚と努力工夫をして頂きたく存じます。また御支援を賜る関係商社各位に商品、サービス等情報交換に御厚誼を賜りますようお願いすると共に、衷心より各位の御健勝御繁栄をお祈り申し上げます。
丸長のれん会会長 坂口 光男
【創立60周年に寄せて】
祝!丸長のれん会60周年
北尾 トロ(町中華探検隊隊長)
2014年に結成された町中華探検隊では、昭和が生んだ食文化のひとつである、大衆的な中華の店を訪ね歩き、店の歴史やその味を記録する活動をしています。その影響もあるのでしょうか、ここ数年で“町中華”という言葉も定着し、いまでは一般用語として使われるようになりました。
私にとって丸長と名のつく店が特別な存在になったのは、『下北沢丸長』でレバニラ炒めのおいしさに感激した後、ご主人の深井 正昭さんから、丸長の歴史やのれん会の存在についてうかがってからだと記憶します。その話は、戦後の日本、とりわけ復興期から高度成長期にかけてのバイタリティあふれる時代を象徴するような、聞いていてわくわくする内容でした。
それまで、ご高齢の店主たちが見せる熟達の技に目を奪われ、変わらぬ昭和の味を追い求めることで精一杯だったのですが、町中華はただそこにあるのではなく、それぞれの店に固有の物語があり、のれん分けでつながったグループが存在しているのだということに気がついたのです。のれん会だけでいくつも野球チームがあったなんて驚きです。でも、1枚の写真を見るだけで、当時の勢いが伝わってきます。そうか、町中華は戦後に急成長した若々しい食文化だったんだ…。昭和の空気感を伴って、自分が子どもだった時代に思いを馳せることができたのは、あのときが初めてでした。
さらに関心が深まったのは、下北沢丸長で開催されたのれん会の集まりに呼んでいただき、アットホームな雰囲気に触れてからです。形だけ存続するのではなく、いまも交流の場となっているのれん会は、町中華界でも珍しい例ではないでしょうか。
その会が縁で、『お茶の水、大勝軒』の田内川 真介さんと知り合い、つけそばの人と思われがちな山岸 一雄さんが中野大勝軒出身であり、町中華で腕を磨いた人だと知ることもできました。また、2018年の年末には、坂口 光男会長、田内川さんと私とで、丸長のルーツである長野県山ノ内町を訪問。最後にはなぜか3人で露天風呂に浸かるという、不思議な一日を過ごさせていただきました。
最後に、私が思う丸長グループの最大の強みは、世代を超えてつながりを持ち続ける、のれん会の存在です。のれん会とは、人と人のつながりのことだからです。今後もそれを絶やさず、昭和から平成、そして新しい元号の時代へと受け継いでいってください。
60周年おめでとうございます!
【協力団体・協賛企業】
長野県山ノ内町 観光商工課
新宿吉野麺機株式会社
キリンビール株式会社
エスビー食品株式会社
ヒゲタ醤油株式会社
星野物産株式会社
株式会社大谷商店
株式会社扇屋商店
株式会社八幡屋礒五郎
キリンビバレッジ株式会社