大震災・大津波からの避難 その時どう生徒を守り抜いたのか ~全員無事避難することができた浪江町立請戸小学校~

尾西食品株式会社のプレスリリース

想定外の出来事を乗り越えた請戸小学校の奇跡 取材記事公開

尾西食品株式会社(本社:東京都港区 代表取締役社長 古澤紳一  ※以下、尾西食品)は、防災食・備蓄のリーディングカンパニーとして、”アルファ米”をはじめとする非常食を製造・販売。専門家のアドバイス、被災者の声を通して日常の防災意識を高める活動を進め、2021 年3月より、公式サイトにて防災コラムの発信をしております。

12年目の3月11日が近づいてきた今回は、福島県浪江町のなみえ創成小学校の佐藤信一先生に東日本大震災発生時のお話しを伺いました。浪江町は、東日本大震災による津波被害とその後の原発事故で全町民が避難を余儀なくされました。佐藤先生は、現在震災遺構となっている浪江町立請戸小学校で、当時教員をされており、教員方の迅速な判断と、多くの地域の人々の協力により、93名もの児童全員が無事避難することができました。「奇跡の避難」とも言われる当日のご経験を詳しくお話し下さいました。


なみえ創成小学校 教諭
佐藤信一先生

〜その時何が起こったのか〜

――地震が起きた時の様子を教えてください
当時私は教務主任でしたので、担任を持っていませんでした。あの日は1年生は既に下校していましたが、2年生以上は帰りの会の時間で、それぞれの教室にいました。私は1週間後に控えた卒業式の準備で5年生と一緒に体育館にいました。地震が起きると余りの強い揺れで立っているのがやっとでした。私は子供たちには「座りなさい!」「体を伏せなさい!」と叫び、出口を確保するために体育館の扉を両手で掴んだのですが、そのまま左右に1mくらい振られ、飛ばされないようにするのに必死でした。

強い揺れは1分以上続いたでしょうか。ようやく揺れが治まったと思ったところで、もう一回ドーンときて、また飛ばされないようするのが精いっぱいでした。地震が起きた時には、子ども達も悲鳴を上げていましたが、揺れている最中は皆冷静に座って我慢してくれていました。揺れが治まった時には怖さの余りに涙を流す子もいたと思います。私は一緒にいた先生に子ども達を任せ、避難体制を整えるため、すぐに職員室へ戻りました。


 
――想定通り避難はできましたか
職員室に戻ると、教頭から「校庭へ避難させよう」と指示が出ましたので、すぐ各教室を回って声を掛けていきました。1階に教室がある2年生3年生は既に教室の窓から校庭に逃げていましたが、2階の教室や体育館から校庭への避難経路として想定していた通路が、地震の揺れでプールから水が溢れてしまっていて、通れなくなってしまっていました。

これは想定外の状況でしたが、急遽、1階の保健室の窓から抜けて校庭に逃げる事に決めました。請戸小学校には、当時車椅子に乗っている児童がおり、車椅子に対応できる設備がありました。車椅子が通る事ができるスロープがあったのが、保健室の前だったのです。とっさの判断でしたが、避難ルートを変更する事で車椅子の児童も含めて子ども達全員をスムーズに校庭へ避難させることができました。
 
――学校から避難した方が良いという判断はいつされたのでしょうか
「学校から離れよう!」という判断をしたのは校長でした。私は教頭と一緒に取り残された子どもがいないか、学校の中を確認していましたが、子ども達の人数を数え終えるとすぐに、校庭から逃げ出す様子が校舎の中から見えました。避難所として指定している裏山の大平山へ逃げていったのです。実は震災の当日、たまたま教頭と「この学校の避難所は大平山でしたよね」と話をしていたこともあり、大平山への避難に迷いはありませんでした。このことは今から思うと幸運でした。

〜避難の道のり〜

――大平山への避難は順調だったのでしょうか
学校の西側の県道まで行くとまた想定外のことが起こっていました。左右から車が数珠つなぎになっていて、とても横断できる状況ではありませんでした。普段は子どもが待っていると停まってくれるのですが、皆急いで逃げようとしているわけですから、停まってくれません。たまたま停まってくれたタイミングで、数人単位で子ども達を横断させることを何回か繰返して、何とか全員を横断させることができました。

ところが、車の中から子ども達を見つけた保護者の車が停まってしまい、それが原因で大渋滞になったのです。ここで子ども達を保護者の車に戻してしまうと更に混乱を招くと思い、保護者の車に戻さずにそのまま太平山へ避難を続けるように指示をしました。
 
――保護者の方々の理解は得られたのでしょうか
保護者の方には、「これから子ども達は役場まで避難させるので、役場に迎えに来てください」と声を掛けました。この時子供たちが逃げていたのは、車が停まっている県道とは少し離れた太平山へとつながる細いあぜ道でしたので、保護者の方も連れていく事を諦めたようで、理解をしてくれました。もし県道近くの道を逃げていたら、保護者の方は子どもを連れて行ったかもしれません。これも幸運でした。
 
――車椅子のお子さんの避難はどのようにされたのでしょうか
最初は車椅子を支援員の方が押して逃げていたのですが、そのうち道が悪くなり、担任の男の先生がおんぶして、支援員の方が車椅子をたたんで避難しました。足に装具を入れている女の子もいたのですが、その子は列の最後尾に付いて逃げる形になりました。早歩きに近いスピードで逃げていたのですが、どうしても体力的についていけない子どもはずるずると後ろに落ちてくるので、列がとても長くなってしまいました。一番後ろには我々教員がいましたが、教員だけでは対応できないくらいに長い列の中で、高学年の子ども達が自分達の判断で低学年をうまく挟んでくれて、全員で一緒に逃げることができたのでした。
 
――避難場所の大平山はよく行く場所だったのでしょうか
実際に訓練で登ったことはありませんでしたし、子ども達も普段遊びに入るような場所ではありませんでした。この時もどこから山に入れば良いのか、山の入口は知りませんでした。ところが、野球のトレーニングで入ったことがあった男子児童が入口を知っていて、その子に付いて山に登っていくことができたのです。

もしその子がいなかったら、迷わずに山に登ることはできなかったと思います。また、山を登っている途中は後ろを振り返っても、木が生い茂っている山道でしたので、町の様子が見えなかったのも良かったと思います。もし町が津波で水没し、家や車が流されている様子を子ども達が見てしまっていたら、きっとパニックになっていたと思います。

大平山の頂上からも町の様子は見えず、子ども達は津波の被害の状況を一切知らずに避難することができたのです。いくつもの幸運が重なって頂上まで逃げることができたと思います。頂上では一緒に避難していた地域の方が、「ここから反対側に下りると国道に通じているから、暗くなる前に子ども達を山から下ろした方が良い」とアドバイスして下さり、国道まで子ども達を下ろすことにしました。


※いそげ!大平山へ 請戸小学校避難経路図 NPO法人 段階のノーブレス・オブリージュ発行 より

――国道に出てからはどう避難するお考えでしたか
国道まで下りれば何とかなるだろうと思っていましたが、知らない道でしたので一体、国道のどの場所に下りられるのかも正直分かっていませんでした。国道に着いてからは、とにかく役場まで逃げようと考えていた所に、最後の幸運がありました。大きな荷台があるトラックがたまたまそこを通り、その運転手さんが子ども達全員を荷台に乗せて役場まで連れて行ってくれたのです。こうして子ども達全員が怪我もすることなく、役場まで無事避難することができたのでした。
 

〜あの日を振り返って〜

―― 全員が無事に避難できた要因は何だったのでしょうか
お話したように、いくつもの幸運が重なったのは事実です。
しかし、それ以上に地域の方々が気にかけてくれて、一緒に動いてくれたのは大きかったと思います。どこかでタイミングが狂えば命を落としたかもしれず、ある意味救われた命だったと感じています。もちろん学校の教員も日頃から一人が動くとそれに合わせて動けるような、横のつながりがしっかりしている職場であった事も、混乱せずに無事に避難ができた要因の一つである事は間違いありません。

但し、何より子ども達が大人たちの指示をよく聞いてくれましたし、上級生は先生に言われなくても「下級生の手をつないであげる」「上級生が下級生の間に入って一緒に逃げてあげる」といったことを、自然にやってくれたのはとても頼もしかったです。今振り返ると、お父さん・お母さんの代からの先輩・後輩の関係が続いていることや、地域の一体感がある土地柄も、「奇跡の避難」を生んだ要因だったと思います。
 
―― 震災から12年が経ち、震災を知らない子ども達が増えてきました。今の子ども達に伝えたい事は何でしょうか
震災直後は「また来るかもしれない」と、準備したり構えたりしていたと思うのですが、だんだん感覚が薄れてきて、「大丈夫だろう、来ないだろう」という感覚が出てきていると思います。子ども達には「来るかもしれない」と常に意識して、選択肢をたくさん持つように話をしています。

例えば、2つの選択肢よりは選択肢は5つあったほうが良い、その中でどれが正しいかは結果論であって、ダメな場合もあるけれど、二者択一よりは5つの中からベストなものをその時に選ぶ。自分なりに情報を集めて準備しておくことが生存率を高くすると思っています。岩手県には「津波てんでんこ」という言い伝えがあり、「とにかく津波が来る前に逃げろ」ということですが、浪江町にはそうした言い伝えはありませんでした。

浪江の海は遠浅で「津波は来ない、来たとしても大したことはない」と殆どの人が思っていました。学校の中にいても、ずっと先生と一緒にいられるわけではない。最後に自分の命を守るためには、自分で動かなければならない。自分で考えて行動できるよう、避難訓練をやるのです。そして家にいる時や家の人が留守の場合はどうするのか、ということも話し合って欲しいと思います。自分の命を守るためには、自分で選択して行動できることが大切だと思っています。

本文はこちら: 
https://www.onisifoods.co.jp/column/detail.html?no=16                                                                          
■尾西食品株式会社
・事業内容:長期保存食の製造と販売   
・代表取締役社長:古澤 紳一 
・所 在 地:〒108-0073東京都三田3-4-2いちご聖坂ビル3階 
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