株式会社大勝軒TOKYOのプレスリリース
山ノ内町は、つけ麺の考案者で、後に“ラーメンの神様”と呼ばれた故・山岸一雄や、山岸が修行したラーメン店「丸長」の創業者たちの生まれ故郷であり、当地に出店をすることが故人の長年の夢でした。
弟子の一人として、「お茶の水、大勝軒」、「大塚大勝軒」等を経営する田内川真介が師匠の遺志を受け継ぎ、山ノ内町の協力のもと、志賀高原・一の瀬ファミリースキー場内に「山ノ内大勝軒」を立ち上げることなりました。
名 称 : 山ノ内大勝軒
所在地 : 長野県下高井郡山ノ内町大字平穏7149
志賀高原 一の瀬ファミリースキー場 無料休憩所内
営業期間 : 2020年12月1日~2021年5月5日(冬~春期限定オープン)
※スキー場オープン期間に準ずる
営業時間 : 11:00~18:00
金、土、祝前日は11:00~22:00
※ナイター営業時間に準ずる
問合せ先 : 山ノ内大勝軒 080-5093-9995
Email : taishoukentokyo@gmail.com
URL : http://www.taisho-ken.tokyo
【山ノ内大勝軒の特色】
つけ麺発祥の店としての伝統の味を継承するとともに、山ノ内町の特色を生かし、志賀高原の清流や自然の恵みを使ったメニューが特徴となります。
◆低温沸騰による極上のスープと醤油タレ
標高が高く(約1,600m)、気圧が低いため、沸点が95℃以上にあがらないことで、スープを煮込む際に出てしまう豚骨や野菜のアクや雑味が一切出ず、食材の旨味だけがじっくり抽出されるという、「ラーメンスープ」にとって最高の環境となっています。
日本一標高の高い大勝軒は、志賀高原の天然水と低温沸騰調理により日本一美味しいスープが作れる大勝軒となりました。
また、豚のもも肉を醤油で煮込んでチャーシューを作り、その煮汁に2種類の醤油をブレンドして醤油タレを作るのですが、低温沸騰により肉のアクが出にくく、丸みと深みのある優しい味に仕上がっています。
◆地産を生かした5つのこだわり
『志賀高原の名水』
料理の基本は「水」
標高2000m級の山々からじっくりと濾過された湧き水を使用し、低温沸騰でじっくり煮込んだ極上のスープが完成しました。
『信州特産きのこ』
味わい深く滋味豊かな山の幸「信州特産きのこ」を使った「きのこラーメン」。
北信州の味覚をふんだんに使った大勝軒の新しくも懐かしい味となっています。
『山ノ内町特産りんご』
志賀高原の清流に育まれた「山ノ内町特産りんご」
山々を流れ落ちる清冽な水で育った果実をスープにふんだんに織り込みました。
『志賀高原みそ』
江戸時代から続く老舗・関谷醸造場の「信州みそ」。
「みそラーメン」や「みそつけめん」は、無添加の天然みそに、山ノ内町のりんごを加えた特製みそだれが特徴です。
『八幡屋磯五郎の一味』
日本三大七味のひとつ「八幡屋磯五郎」
長野が誇る名店の逸品が大勝軒の特製もりそばの味をより一層引き立てます。
【東京ラーメンの老舗「丸長」の源流は山ノ内町】
◆「丸長」とは
戦前に山ノ内町から上京し、日本橋で蕎麦職人として働いていた青木勝治が中心となり、1947年(昭和22年)、荻窪に山ノ内町出身の5名の共同経営で中華そば「丸長」を創業。
「丸長」の「長」は長野の「長」から。
その後、それぞれが「丸信」「栄楽」「大勝軒」「栄龍軒」として独立し、各店が「のれん分け」として出店を増やしていく。
◆創業メンバー
青木 勝治 『丸長』
山上 信成 のちに『丸信』を創業
青木 保一 のちに『栄楽』を創業
青木 甲七郎 のちに『栄龍軒』を創業
坂口 正安 のちに『大勝軒』を創業
◆丸長系ラーメンの特徴
創業当時(昭和20年代)のラーメン(中華そば)といえば、鶏ガラをベースとした中華系スープが主流でした。
「丸長」の創業者たちは蕎麦職人として働いていたこともあり、豚骨のスープに日本蕎麦の技法であるカツオ節やサバ節で旨みを加えることを考案し、その新しい旨味が評判となりました。
この味が支持されて戦後のラーメンブームが起こったといわれています。
現在では当たり前となっている「動物系」と「魚介系」でラーメンスープの出汁をとる技法は「丸長」がその礎を作り、現在のラーメンの原点となっているといえます。
◆つけ麺の発祥・中野大勝軒
創業メンバーの一人、坂口 正安は、「丸長」「栄楽」で修行の後、山岸 一雄とともに東京・中野に「大勝軒」を立ち上げます。
じつは「つけ麺」は「丸長」の創業者 青木 勝治が「ざるそば気分で」考案し、まかないとして食されていました。
1955年(昭和30年)に中野大勝軒の店長となった山岸 一雄が「特製もりそば」として初めて商品化。
その後の1961年(昭和36年)、独立した山岸 一雄が池袋に大勝軒をオープンすると行列の絶えない人気店となり、つけ麺ブームを牽引することとなりました。
【山岸一雄プロフィール】
旧「池袋大勝軒」の創業者。
1934年(昭和9年)4月28日 – 2015年(平成27年)4月1日
日本におけるつけ麺の普及に大きく貢献し「つけ麺の生みの親」また「ラーメンの神様」と呼ばれ広く親しまれた。
◆経歴
長野県下高井郡山ノ内町に生まれ、3才まで過ごす。
4歳の時に海軍所属の父の勤務先だった神奈川県横須賀市に転居。
7歳の時に父が戦死、母と妹の3人で山ノ内町に戻る。
1950年(昭和25年)中学卒業と同時に上京し工場で旋盤を扱う仕事をしていたが、親の従兄であり、小さい頃から「兄貴」と慕っていた坂口正安に「一緒に店をやらないか」と誘われ、1951年(昭和26年)4月、東京都杉並区の『丸長』と『栄楽」で修行を始め、同年、坂口と共に中野に『大勝軒』を立ち上げる。
後に坂口が代々木上原に本店を移設したことにより、山岸が中野店の店長を任されることになる。
その頃、修行店時代からまかないとしていた「つけ麺」を食していたところ、それを見ていた客に「俺にも食わせろ」と言われ提供したところ、高評価だったため、「これはウケるかもしれない」と試行錯誤しながら研究を行ない完成させた。
1955年「特製もりそば」として「つけ麺」を日本で初めて商品化する。
1961年(昭和36年)に池袋にのれん分けとして『大勝軒』を独立創業。
「特製もりそば」を中心に人気を博し、以降行列の絶えない店となる。
1986年、妻の死により休業したが、客の強い要望を受けて復活。
その後、弟子を取ることに方針を転換して約100人の弟子を持ち、暖簾分けもさせた。
2007年3月20日、たくさんのファンや同業者に惜しまれつつ閉店。
引退後は弟子や後輩の店を中心に数多くのラーメン店の良きアドバイザーとして尽力。
日本のラーメン文化を牽引する第一人者となり、「ラーメンの神様」と呼ばれるようになった。
2015年4月1日逝去。
【田内川真介プロフィール】
2006年
山岸一雄監修のもと、『お茶の水、大勝軒』を創業。
看板メニューの「特製もりそば」「中華そば」以外にも、復刻版メニューとして「餃子」「シュウマイ」を伝授される。
2007年
山岸一雄のカレーのレシピを伝授され、二人で「カレー中華」を復刻する。
2008年
東京都渋谷区に『渋谷大勝軒1961』を開店。
(1961年は「池袋大勝軒」創業の年)
2011年
千葉県勝浦市に『大勝軒next』を開店。
2012年
千葉県勝浦市に、お持ち帰り餃子専門店『なるかや』を開店。
2015年
師匠・山岸一雄逝去。
弟子たちで構成するのれん会「大勝軒 味と心を守る会」創設に尽力。
◇同年
日本最古のラーメン店のれん会であり、大勝軒の発祥の母体でもある「丸長のれん会」に加盟。
◇同年
東京都千代田区神保町に『お茶の水、大勝軒 BRANCHING』を開業。
2016年
開業10周年の記念事業として「山岸一雄の秘蔵のレシピシリーズ」を開始。
第一弾「冷やし五目中華」を復刻する。
◇同年
第二弾「カレーライス」を期間限定で復刻し、「神田カレーグランプリ」に参加。
初出場ランで「準グプリ」を受賞。
2017年
第三弾「もりカレー」(カレーつけ麺)を復刻。
◇同年
裏メニューの「カツライスカレー」を復刻し「神田カレーグランプリ」に出場。
「グランプリ」を受賞。
2018年
第四弾「硬い焼きそば」(揚げ麺に野菜あんかけソース)を復刻。
◇同年
東京都豊島区の「大塚大勝軒」を店主より継承。
2019年
「よこすかカレーフェスティバル」の「首都圏三大カレーの聖地バトル」において優勝。
初代「キング・オブ・ターバン」の称号を授与される。
◇同年
第五弾「焼肉ライスカレー」を復刻し「神田カレーグランプリ」に出場。
「準グランプリ」を受賞するとともに「ドライキーマカレー」で「マイスター賞」をダブル受賞。
2020年
第六弾「炒飯」を復刻。
◇同年9月
テナントビルの建て直しのため、「お茶の水、大勝軒」休業。
◇同年11月
山ノ内町より食の観光大使「つなぎびと」に任命される。
◇同年12月
長野県・山ノ内町に「山ノ内大勝軒」をオープン。
【協力団体及び提携企業】
山ノ内町観光課
志賀高原観光協会
志賀高原リゾート開発株式会社
有限会社 関谷醸造場
株式会社 玉村本店
株式会社 八幡屋礒五郎
日清製粉株式会社
エスビー食品株式会社
丸長のれん会
大勝軒 味と心を守る会
丸長 友の会
大勝軒 新友の会